2003年3月25日に家族全員で日本を出国し,英国に向かう予定で準備を進めてきた。ところが1月くらいから世界情勢 の雲行きが急に怪しくなってきた。イラクの大量破壊兵器の国連査察に対して,米国と英国が中心となって反対の立場をとり,ついに3月20日にいわゆるイラ ク戦争が始まってしまった。残念なことに,たぶん大多数の日本人にとってこの戦争は対岸の火事だっただろう。毎日放送されるイラク戦争のテレビ中継は,10年くらい前の湾岸戦争と同じように,単なるテレビのひとつの(娯楽)番組としか写らなかっただろう。テレビゲームと区別できない子供たちもいたかもしれない。日本と中近東はあまりにも離れているからだ。
ところが,我が家にとってこの戦争は大問題だった。英国のブレア首相は米国のブッシュ大統領とともに,真っ向か らイラクと戦う立場を表明しており,われわれが向かうべき英国は戦争の当事国になってしまったからだ。日本の多くの大企業は,即座に従業員の海外出張を中止する決定を下した。それに対して,私が所属する文部科学省はどのような対応を示すのだろうか? 私は宇都宮大学を通して,文部科学省の対応を聞いても らった。その結果,現時点では(戦争が始まった3月20日以降)英国は海外渡航禁止に指定されていないので,予定通り海外出張を行ってください,とのこと だった。ただし,自分の責任で十分注意してください。そして,そのように十分注意する旨を書いた文書を各大学に送るとのことであった。さらに,あなたは平 成14年度の予算で海外出張する予定なので,3月31日までに出国しない場合には,文部科学省在外研究員としての英国出張を辞退してください,とまで言わ れた。文部科学省が大企業だとは露思っていなかったが,これを聞いた瞬間,やはり文部科学省は従業員のことを守ろうとする意思のない中小企業だな,と怒りを覚えた。この表現は,中小企業でも従業員のことをよく考えているところもあるので,そのような中小企業に対して失礼なものであったかもしれない。文書で 注意しておけば,それで責任を果たし,何かあったら本人の責任にしてしまえばよい,というのがミエミエだったからである。
国家公務員 (すぐに独立法人化されて国家公務員でなくなってしまうが) だから文部科学省に守ってもらおうという のは少し甘い考えかもしれない。自分の身は自分で守るが大原則だろう。日本国民だから日本国に守ってもらおうと期待してもいけないだろう。拉致問題のよう に,騒ぎが日本国民を巻き込んでとても大きくならなければ,国は動いてくれないからだ。
イラク戦争とほぼ同時期に SARS 騒動も勃発した。気の弱いわれわれ家族は迷いに迷った。これまでいろいろな準 備をしてきたのに,ここで海外出張を取りやめることはなんとももったいないが,いくら国力が弱いイラクといえども,大量破壊兵器をもっている可能性も捨てきれず,それで英国を攻撃されたらどうなるだろうか,ヒースロー空港はテロの標的になるかもしれない,などさまざまな状況が頭の中を行ったりきたりした。
もともとヴァージンアトランティック航空を予約していたが,英国系の航空会社はテロの標的になるかもしれないと いう噂もあり,急遽ANAに変更した。そして,3月25日出国を3月29日に変更し,予定通り家族全員で英国に向かった。結局,案ずるより産むが易しで, 成田空港も飛行機もヒースロー空港もすべて安全で,いたって順調に英国に入国することができた。しかしながらこれは結果オーライで,その逆のケースだって 十分考えられたといまでも思っている。
もちろん,大打撃を受けたのは旅行会社や航空業界だっただろう。われわれが3月29日に搭乗した飛行機の乗客は 満席の1/3程度であった。海外旅行でこんなに空いている飛行機に乗ったのは始めてだった。その理由は簡単で,日本人団体客がまったく乗っていなかったか らだ。その代わりに,われわれの後ろに中国人の若者の団体客が乗っており,彼らは空いていることをよいことに,傍若無人に振舞っていた。そして,彼らが咳 をするために,われわれ家族はビクビクしていた。イラク戦争は約1ヵ月後の4月中旬に終結したが(表面的には終結したが,現実にはまだまだイラク戦争は続 いている。戦争が続いていると最も思っているのは,ドクターケリーの自殺問題の渦中にあるブレア首相であろう),その後,SARS騒動の方が深刻になって しまった。
さて,9月初旬にケンブリッジ大学でヨーロッパ制御会議が開かれ,多数の日本人研究者がケンブリッジにやって来 た。親しい友人も何人か来るので,彼らには我が家の電話番号を伝えておいた。8月31日の夜,そのうちの一人から電話がかかってきた。ケンブリッジに着い たことを報告してくれたのだな,と思って話し出すと,「パスポートや,帰りの航空券,クレジットカードなどを,ヒースロー空港で盗まれてしまったので,助 けてほしい」との内容であった。その友人は,海外経験が豊富で,しかもとても注意深い人なのであるが,タイミングが悪かったのだろう。ヒースロー空港の出 迎え客がたくさんいる出口でバックを開けられてそれらのものを盗まれたらしい。彼は動転していたが,電話を受けた私もびっくりしてしまった。まず,クレ ジットカードを使用できない手続きだけはできたが,パスポートと帰りの航空券について手伝ってほしいとのことだった。
そこで,「地球の歩き方」の後ろのほうにある「旅の安全:パスポートをなくしたら」という項を熟読した。それに よると,パスポート再発給に必要なものは,① 写真2枚,② 紛失・盗難届出証明書,③ 本人が確認できる身分証明書(ない場合は同行者が証明できればOK),④ パスポート番号と発行年月日,発行地 ⑤ 印鑑(捺印),とあった。それらをロンドンにある日本領事館にもっていけばよいと書いてあった。しかしながら,再発行までの所要時間はケースバイケース で,2~3週間は覚悟しておいたほうがよいとあった。したがって,通常は「帰国のための渡航書」を発行してもらうとも書いてあった。
早速,翌日(9月1日)の朝から行動を開始した。用心深い彼は,写真2枚とパスポートのコピーをもっていたの で,まず①と④はクリアできた。実は,私は彼が写真を持っていなかったらどうしようと悩んでいた。日本と違ってケンブリッジでは,パスポート写真を撮るた めのインスタント写真の装置を見たことがなかったからだ。つぎは,紛失・盗難届出証明書だ。そのために彼をケンブリッジの警察署に連れて行き,その受付で 証明書の発行をお願いした。彼は英語が堪能なので,警察官との会話は問題なかったし,対応してくれた人もとてもやさしく,その場で証明書を発行してくれ た。これで②もクリアだ。
これらの書類をもって彼はロンドンの日本領事館に向かった。その日の午後,私は予定が入っていたのだが,運よく 彼の大学の後輩がロンドンまで同行してくれることになった。ケンブリッジから10:45発のノンストップの電車でロンドンキングスクロス駅へ行き,そこで 地下鉄ピカデリー線に乗り換え,グリーンパークで降りれば,日本領事館までは歩いて5分の距離だ。午前中の受付は12:30までだが,運良く午前中の受付に間に合ったそうだ。彼らから聞いた話によると,領事館の人はとても優しく,しかも翌日にはパスポートを再発行してくれるといわれたそうだ。地球の歩き方 の情報とはまったく違って,信じがたいスピードでの再発行である。私はこれまで,日本政府は海外で邦人を守ってくれるのか,疑問に思っていたのだが,この話を聞いてちょっと考え方が変わった。現代でも「杉原千畝」のような外交官の存在は,海外で暮らす日本人によっても心強い見方だ。
航空券に関しても,彼は JAL のエコノミークラスであったが,「悟空」という格安航空券でもちょっとランクの高いものを購入していたので,JAL に電話したら即座に再発行の手続きをとってくれた。
前日の8/31を地獄としたら,9/1はすべてうまく進んだ天国のような一日だった。その晩は3人でケ ンブリッジの日本料理屋(らしきところ)で前祝をした。翌日の9/2には新しいパスポートが発行され,その日の夕方には彼はそれを手にすることができた。 パスポート紛失からわずか3日目のことだった。ロンドン領事館発行という貴重なパスポートをもって友人は帰国していった。