私のことをよく知っている人は私の英会話能力の低さを認識しているので問題ないのだが,私のことをあまり知らず, 足立研究室 HP の「ケンブリッジだより」を通して私にアクセスしている人の中には,このケンブリッジだよりの作者は英語がペラペラに違いない,と勘違いしている人がいるかもしれない。今回のケンブリッジだよりの主題は,もしそのような人がいたとしたら,その誤解をとくことである。
中学,高校のとき,英語は決して苦手科目ではなく,むしろ好きなほうだった。大学でも理科系の場合,4年生で研究室に配属されると,英語の文献や洋書をたくさん読まなければいけなくなるが,それもいやだと思ったことはなかった。決定的に欠落していたのは,外国人が話す英語を実際にヒアリングする機会と,自分自身で英語をしゃべる機会がほとんどなかったことと,日常会話を英語でどのように表現すればよいのかについて学んだことがなかったことだった。これは,自分自身の問題意識の低さと不勉強のせいであるのだが,本当にそれだけなのだろうか。中学から大学2年生まで,計8年間も勉強して,英会話ができないというのは,本当に情けない。
一体,日本の英語教育の目的は何なのだろうか? ヨーロッパのラテン語のように,教養のためなのだろうか,それとも大学受験のためなのだろうか,それとも英語の先生を保護するためだろうか。
英語を学ぶ第一の目的は,英語を実際に使えるようにするためだと考えたい。そのためには,英語は講義科目ではなく,体育や実験と同じような実習科目なのだと思わなければいけない。よい教師(できれば英語を母国語とする人)のもとで小さいときから練習を重ねれば,自然と英語を話せるようになるだろう。ちなみに,4人家族の我が家のなかで一番英語の発音がよいのは,5歳の娘である。彼女もほとんど英語を話せない状態でこちらに来たが,現地小学校に5ヶ月近く通っただけで,発音の仕方がぜんぜん違う。彼女は,英語をいったんカタカナに変換せずに,耳で聞いたままを発音しているからだろう。
私のように理科系の教員でさえ,英国に滞在していれば,現在の日本の英語教育では英会話など到底できないことに簡単に気づく。これまで多くの英語教育者が私のような在外研究員,あるいは違う身分で,米英に滞在したと思うのだが,その人たちは一体何を感じて帰国したのだろうか? もしも感じだとしても,それを教育の現場にフィードバックできたのだろうか? 不思議でたまらない。
英語教育者だけに責任を擦り付けることは不公平だ。英語を勉強するためには,その動機付けが必要である。幸いなことに,しかし不幸なことに,日本は島国であり,日本だけで暮らしていくのであれば,英会話など覚える必然性はまったくない。英会話を勉強しても,ほとんどの人は使う機会はない。海外旅行に出かけても,ハワイなどでは日本語ですべて事足りてしまう。英語を学ぶ動機付けが大学受験であることは仕方がないことなのかもしれない。
日本が本当にグローバル化するためには,英語が必要なことはいうまでもない。そのためには,中学から英語を始めるのでは遅すぎる。幼稚園,遅くても小学校から native の教師から英語を学ぶ必要があるだろう。できれば,中学くらいまでこれを継続できればよいと思う。特に,日常使う英会話を,香取慎吾の「ベラベラ・イングリッシュ」のように,小さいときから暗記させたい。いま日本で流行の言葉を使えば(ちょっと遅れているが),「声に出して読みたい英語」である。いま思うことは,英語を用いた感情表現を学校で教えてもらった記憶がない。残念ながら,私は日常生活におけるちょっとした英会話の引き出しが頭の中にないのである。
そして,高校になったら,英語は必修ではなく選択にして,高校生全員が英語を受講しなくてもよいようにしらたどうだろうか。本当に将来英語が必要な人だけ英語を学べばよい。このときに英文法や英作文を学べば,理解が深まるだろう。大学だって,英語は選択科目にすべきである。その代わり,しっかりとした実践的な英語教育を行う。英文学者が自分の趣味の(口が滑ってしまいました,趣味ではなく研究の)英文学を教えても,ほとんどの学生はその意義を見出さないだろう。ダブルスクールなどといって,大学生が英会話の専門学校に通うというのは,どう考えてもおかしな話だ。
韓国では,幼児からの英語教育が盛んだそうだ。台湾も同じそうである。これはケンブリッジに滞在している韓国や台湾の友人から聞いた話である。日本はいつまでアジアのトップでいられると思っているのだろうか。取り返しのできない事態が起こりつつあることを察知できているのだろうか?
さて,“Received Pronunciation (RP)” とは,「容認標準英語の発音」,あるいは「英国のパブリックスクール,オックスブリッジ出身者,または広く教養人の間で話される英語」という意味であり,これも英国に来てはじめて知った熟語である。“Received Standard” と呼ばれることもある。あるいは BBC英語といってもよいだろう。BBC のアナウンサーがしゃべる英語のことである。
英国にきてまず,いろいろな英語があるな,と感じた。ケンブリッジ大学の先生のしゃべることは,断片的にだがなんとか理解できる。また,BBC ニュースでアナウンサーが話す英語も(これはアナウンサーに大きく依存するのだが),何とかわかる。トニー・ブレア首相の英語も非常にわかりやすい。これらはすべてRPなのだ。しかしながら,plumber (水道屋)や fitter (取り付け工)など,いわゆる労働者階級の人たちが話す英語は,(人にもよるのだが)まったくわからないことがある。
そして,ひとたび町に出かければ,インド系の英国人,東洋系の人,中近東の人,など,いろいろな国から来た人が,独特の発音で RP でない英語をしゃべっている。しかし,みな自信をもって訛りの強い英語をしゃべっている。私もそうなのだが,日本人が決定的に劣っている点は,自信をもって英語をしゃべる訓練を受けていないことだ。日本人が R と L の発音の区別ができないことは,教養のある英国人の多くは認識している。そして,彼らは,日本人が “I eat lice.” (私はシラミを食べます)と発音したとしても,“I eat rice.” (私は米を食べます)とちゃんと修正する知性をもっている。
英語教育で一番大切なことは,流暢でないたどたどしい英語でも,堂々と話すことを教えることだ。そして,話をする内容をもつことだ(これは英語教育ではないかもしれない)。これらが日本人には一番欠けている点だ。英語の細かなテクニックも大切だが,このような基本的なことを小さいときから教育できないものだろうか。
セントラルヒーティングの調子がおかしいときは,私はいまだにどきどきしながら,たどたどしい英語で plumber に電話をかけている。しかし,たどたどしい英語だって悪いことばかりじゃない。このplumber とは5月の修理月間以来の付き合いなので,私の下手な英語を聞くと,すぐ私であることをわかってくれる。