昨年(2002年)は私が神奈川県の県立高校を卒業してちょうど25年経った年に当たり,8月に “Project Q” という名の同窓会が開かれた。Q は Quarter (1/4世紀) の略である。いかにも40代半ばのおじさんが考えたタイトルである。当時,1学年450名で10クラスあったが,同窓会の当日には,たぶんその半分近くは 出席していたのではなかろうか。一目で名前が出てくる人,全くでてこない人など,さまざまだったが,皆社会の中軸として元気に活躍しているようだった。

25年前は,高校から東大に何人入った,ということが3月の季語のようになっており,新聞には東大合格者ランキングが掲載され,週刊誌には東大合格者の全氏名が好評されたものだった。今から考えるとおかしな時代だった。残念ながら,私はこのランキングには全く貢献できなかったが,当時,母校は公立高校としてはこのランキングの上位に入っていた。いわゆる進学校だったので,入学する前は受験勉強ばかりする高校かと思っていたのだが,入ってみると全く雰囲気は違っていた。大学受験のための対策など全くせず,楽しく遊ぶことばかり企画していた。校則はひとつもなく,勉 強しろなどと言われた記憶はなかった。優秀な人は言われなくても,勝手に勉強していた。毎月,対組(クラス対抗)のスポーツ大会が開かれており,勉強だけできるのではだめで,その上にスポーツとか芸術とかに才能がある人が尊敬されていた(ように思える)。ハイライトは9月下旬に行われる体育祭で,これはスポーツ大会ではなく,仮装(創作ダンス?のようなもの)とかバックボード(の絵)とかを競う,どちらかというと文化祭に近いイベントだった。

体育祭は,学年を縦割りにして,たとえば19組(1年9組の意味)と29組と39組が「青」チームになり,8組 の縦割りは「紫」チームになり,といったように,1年生から3年生までをある色に対応するグループに分けて,対抗戦を行うものだった(関係者以外には何を 言っているのかわからないかもしれないが)。夏休みから9月下旬までは体育祭の準備ばかりしていた。もちろん3年生が主体になって準備を行うので,本格的 な受験勉強は10月に入ってからだった。当時は,まだ共通一次試験(現在のセンター入試)もなく(私が2浪すると共通一次を受けなければならなかった), 平和な時代だったのかもしれないが,それでも優秀な人は10月から本格的な受験勉強を始めて,現役で東大に合格していた。3年生が下級生を指導しながら productionを進めていくというのは,非常によいシステムだった。当時,「日本株式会社の縮図を高校の体育祭に見た」という題の記事が地元の地方 紙に載っていた。それは在校生の父親が寄稿した文章だった。縦割りのシステムは,なんとなくケンブリッジ大学のコレッジにおける上級生と下級生に似ている なと,こちらに来て感じた。

当時,私は庄司薫(ピアニストの中村紘子のご主人)の「赤頭巾ちゃんシリーズ」をよく読んでいて,特に「白鳥の 歌なんか聞こえない」が一番好きだったのだが,この物語の舞台となった昭和40年代初期(悪名高い学校群制度ができる前)の都立日比谷高校の自由な雰囲気 がとてもうらやましかった。しかし,実際に高校に入学してみると,その日比谷高校にある種近いものを感じた。当時から神奈川県では,高校入試の際に男女の 定員を定めておらず,成績上位者から定員までを合格者としていたので,年によって男女の入学数は違っていた(現在はどうなっているか知らないし,当時でも 限られた高校のみがこのように行っていたのかもしれない)。私のときは,男子が2に対して女子は1の比率だった。したがって,体育祭の最後を飾る全校生徒 によるフォークダンスでは,上級生にならないと女子とダンスを踊ることはできなかった。はやく3年生になりたいと思っていた。クラスの出席簿も男女の区別 はなく,単に「あいうえお」順だった(その当時,ユーミンの「最後の春休み」で『アルファベットの名前順...』という歌詞があり,それにはびっくりした が)。授業時間は一コマ70分で,1日に4時限しかなく,学期も前期・後期の2学期制だった。いまは女子の方が多くなったそうだし,他のシステムもいろい ろ変わってしまっただろうが,当時としては非常に変わった高校だったのではないかと思う。

さて,ケンブリッジの小学校に通っている子供たちのクラスにも,クラス名簿(といっても名前しか記載されていな いが)がある。その並びにはもちろん男女の区別はないのだが,アルファベット順でもなかった。ずーと家内と不思議に思っていたのだが,あるとき家内がその 並び方の法則に気がついた。言われてみればなんと言うことはないのだが,誕生日の順に並んでいた。こちらでは “Birthday party” は大切な行事なので,このクラス名簿の並び方は非常に合理的である。子供の誕生日には学校にケーキを差し入れたり,家が広い人は家で Birthday party を開いたり,そうでない人はたとえばマックを借り切ってパーティを開いたりするのである。わが家の場合には,娘の誕生日に小学校のクラスにチョ コレートを差し入れただけで済ませた。そして帰りのホームルームのときに,そのチョコを配り,クラスメートがハッピーバースデーの歌を合唱してくれたそう だ。

12月に入り,9月から始まった4ヶ月におよぶ長い autumn term も終わりに近づいた。ケンブリッジ大学は,10月に始まり12月初旬にはもう学期は終わっているのに,小学校は日本とほぼ同じように12月19日 まである。学期末,そしてクリスマス前なので,小学校もイベントが目白押しだ。12月9日には Year 1/2 (日本では幼稚園年長と1年生に当たる)合同の Christmas production が開かれた。Year 1の娘を見るために,家内と小学校に出かけた。会場は父兄でいっぱいだった。クリスマスなので,演目はイエスキリストの誕生に関するものだった。毎年,こ の演目で行っているようだ。私はキリスト教という背景をもっていないので深く理解できなかったが,子供たちはもう一丁前に演技をしていた。Year 5 の息子の production もそうだったが,演技と歌とのバリエーションがいい。日本でのこの年代の子供の劇では,いかにも童謡という歌を歌うものだ が,こちらでは童謡だけでなく大人が歌うようなメロディの歌や,ロック,クラシックなどが混じっていて,聞いていてとても楽しかった。

そういえば,私はキリスト教関係の幼稚園に通っていたので,クリスマスに同じような劇をして羊飼いの役をしたことを思い出した。何十年も経ったいま,娘が私と同じ劇をケンブリッジで演じている不思議を感じた。

近所のGrafton Centreの前のクリスマスツリー