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我々は将来と未来をふだん何気なく混用しているが,たとえば「タイムマシーンで未来からやってきた」,「将来どんな仕事につきたいか」と言うときには,将来と未来に互換性がない。漢文調に読めば「将来は将に来たらんとする」「未来は未だ来たらず」だから,時間的な遠近感とそれによる見通しの良し悪しに違いがある。近い将来というが,近い未来とは通常言わない。しかし,近未来という言葉も最近は使われているので,境界は曖昧である。
和英辞典では将来も未来もfutureである。近未来の出自はthe near futureの直訳らしく,これが漢語由来の将来と未来に割り込んだようだ。来るものは拒まずに無定見に受容し,物事を曖昧にしてしまう日本文化の典型かもしれない。
さて,ここでは,つぎのように定義しよう;
将来:the not-too-distant/the foreseeable future
未来:a vague/an uncertain/an intangible future
われわれは,現行品とそのマーケットの将来について強い関心がある。調査会社が発行する将来動向レポートは,少々高くても購入して細かいところまで実によく読む。しかし,いまを超越する未来の商品については,日常業務としてほとんど時間を費やさない。不確実だから,やっても所詮は無駄だと自らを合理化する。
しかしよく言われるように,宝くじは買わなければ当たらない。宝くじのようなインターネットの新事業は,アメリカ人の独壇場になっている。
いまから約20年前に出版され啓蒙書Japan’s Crisis in Electronics:Failure of the Vision「日本の技術が危ない」(日本経済新聞社,1994年)では,視野狭窄症Tunnel Vision的な直線思考の技術経営風土が,日本のハイテク産業を衰退させると大胆に予言した。指摘通りのことが起こり,いまも状況は大きくは変わっていないように見える。白いカンバスに未来像を描かずに,所蔵の絵に筆を入れた「次世代○○」という安直な描画パターンから,抜け出せないでいる。
日本が「第五世代コンピュータ」にうつつを抜かしていたときに,メインフレームからパソコンへのダウンサイジングが起きたという歴史の教訓も生かされてないのである。
ところで,極めて平穏に見えたイギリスの掃除機市場に,サイクロンによるゴミ分離の機能と,それを訴求する斬新な工業デザインでDysonが参入し,瞬く間にシェアを奪った。
従来の常識では,掃除機の基本機能は吸引仕事率(力)で,ごみ処理は二の次である。サイクロン方式はモータの仕事の大部分をゴミ分離に費やすので吸引仕事率が低い(販売では吸引力が長続きするとPRしているが,正しくは低空飛行で長続きする)にもかかわらず,お客様は喜んで買っている。これは驚きであるとともに,他業界にとって教訓的である。
予測可能な将来に備えるだけではなく,不確実な未来にも挑戦してみようではないか。